日本機甲部隊大陸での苦闘。
   〜関東軍の驕り〜

ペンネーム 今村 均





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  −華中での戦闘−

  さて、目を転じて第一、第二戦車隊及び新編の第五戦車隊についても見ておこう。

37年7月7日に起きた盧溝橋事件は、現地の停戦協定とは裏腹に中国軍のテロ行為が続発、7月18日には中国第29軍
司令宋 哲元が、支那駐屯軍香月司令官を訪ねて謝罪するが、25日の郎坊事件、翌26日の広安門事件がたて続けに発
生し、日本政府は遂に27日武力発動を決断。邦人保護と治安の回復維持のために27日政府は3個師団を大陸へ派兵す
ることを決定し、本土戦車隊にも動員下令がくだされた。これで、すべての戦車隊が中国戦線に動員されることになる。
第一、第二戦車隊の定員は、1294名で、89式中戦車78輌、94式軽装甲車41輌であった。
紛争拡大にともない8月31日には北支那方面軍が編成され、内訳は、第一軍(司令官 香月清司中将)第二軍(司令官
 西尾寿造中将)他からなっていた。戦車隊は第一軍に属し第一大隊が20師団、第二大隊が14師団の指揮下に入った。
9月14日から京漢線進攻作戦が行われ河北省中部に集結した40万の中国軍の撃滅に当たる。作戦は順調に進行し10
月10日には石家荘まで進出、これを占領する。
一方、8月9日上海の共同租界の外にある虹橋飛行場近くで、2人の日本人将校が殺害された大山事件をきっかけとして、
8月13日中国軍が海軍陸戦隊本部等に総攻撃を仕掛け、第二次上海事変が勃発する。当時、上海近辺にあった陸戦隊の
総員は4000名。対する中国軍は、はじめおよそ3万であったが、9月あたまには35万に膨れ上がった。上海での緊
張が高まっていることに配慮した政府は上海派遣軍(司令官 松井石根大将)を編成し、3,11師団の動員を8月上旬
に決定。新編されたばかりの第五戦車隊もこの時に動員された。8月23日、第3師団はウースンから、11師団は川沙
鎮から上陸する。第五戦車隊も上海埠頭から輸送船のクレーンで揚陸されるが、実弾飛び交う中での作業であったため大
幅に遅れたが順次戦線に送り込まれた。
上海戦線での戦車隊の戦闘は5年前の第一次事変時となんら変わらず、相変わらずクリークに悩まされ、また、歩兵や工
兵と共同で中国軍陣地を一つ一つ潰していくという地道なものにならざるを得なかった。(しかし、先の事変から5年も
いったいなにをしていたのだろう。戦術研究をしていなかったのだろうか?変わったと言えば89式のエンジンがディー
ゼルになったことくらいか?)
膠着状態になった上海戦線の打開のため、第6,18,114師団から成る第10軍(柳川平助中将)を編成し11月5
日抗州湾に上陸させる。背後を突かれることになった中国軍は狼狽し、戦線維持が出来なくなり上海より撤退する。ここ
に上海戦は終結し11月7日上海派遣軍と第10軍から成る中支那方面軍(司令官 松井石根大将)が編成され、南京へ
の追撃戦へと移行する。

  −南京戦と徐州会戦−
クリークと堅陣攻撃では手を焼いた戦車隊であったが、追撃戦となればその本領は発揮される。11月8日華北から独立
軽装甲第二中隊と同第六中隊が援軍として参加。これで追撃戦を闘う戦車・装甲車の数は100輌近くになった。一ヵ月
かけての追撃戦の後、南京を目前にした12月6日。先の第二中隊と第六中隊は6師団の指揮下に入り8日からの雨花台
の戦闘に参加する。94式軽装甲車での戦いは機関銃弾や小銃弾には対抗できたが、対戦車砲には歯が立たず、4輌一度
に破壊されると言うこともあった。12日には中華門を攻め、2個小隊が魚鱗形の隊列を組んで突入し至近距離から中国
軍陣地を制圧するという戦いを演じる。翌、13日には中国軍は壊走し首都南京は占領された。


魚鱗形の隊列を組んで中華門に突入する94式軽装甲車

当時、陸軍首脳には「敵の首都、南京を落とせば、早期講和になる」と見ていたものが多かった。しかし、意に反し、中国軍は
戦意旺盛であり、早期講和は無理であった。それどころか南京戦よりわずか4月後、徐州会戦が起こる。この会戦に集結された
中国軍は50個師団、およそ50万もの兵力であった。上海でも南京でも、敵の徹底殲滅をなす事ができな かった陸軍首脳は、
この敵を殲滅し、敵の完全なる抗戦意図の消滅を狙うことを計った。その内容は、北から北支那派遣軍の第5,10,16,114師団
が南進し、中支那派遣軍の第3,9,13師団が北進し徐州を包み込むように進撃して包囲殲滅を計るという作戦であった。
この戦いには第一戦車大隊が13師団に、第二大隊が16師団に、第五大隊が3師団に配属された。(第三、第四大隊は
先のチャハル戦の消耗から再編中であったので不参加)
作戦目的は中国軍の包囲殲滅なので、敵の退路である徐州−西安を結ぶ線を断たねばならなかった。そこで5月10日戦車
第一大隊に独立軽装甲一個中隊、歩兵一個大隊、山砲兵一個小隊、工兵二分の一個小隊を配した「岩仲支隊」が編成され、
3日後には戦車第二大隊に歩兵一個大隊、砲兵一個中隊、工兵一個小隊を配した「今田支隊」を編成し、共に南北から敵の
退路遮断に向かわせる。(臨時編成の部隊であったが、両部隊とも自動車化され、あわせて300輌を装備した)
岩仲支隊は11日出発、進撃はスムーズだったが途中、優勢なる敵大部隊と遭遇。正面突破は損害を増やすと判断した岩 仲大佐
は一計を案じる。13日、まず戦車、装甲車で敵陣の一部を蹂躙し敵の増援を誘い、敵兵力を正面に向けさせた所で敵陣を東に
迂回し徐州背後にある鉄橋に到達する。鉄橋警備の中国軍はわずかであったのでこの敵を駆逐し鉄橋を爆破
し、退路遮断に成功する。また、1日遅れて今田支隊も目的地に到達し退路遮断に成功した。しかし、中国軍は対戦車砲 を使用し
て反撃してきたため損害も増えた。特に第二大隊は損害が多く装備していた89式36輌中、25輌を失った。

日本軍主力は徐州を占領するも、主目的の敵の包囲・殲滅は攻撃兵力の不足がたたり果たすことが出来ず、いたずらに戦 線を
広げることとなった。退却途中の中国軍は、途中開封北西付近の黄河を決壊させ日本軍の追撃を阻むということもし
ている。なお、この徐州戦では上海以来の歴戦の猛者、西住中尉が戦死している。中尉は第五大隊に属し第3師団の指揮 下
で歩兵支援戦闘を戦い、5月17日徐州南方150qの南平鎮の戦いで戦死した。参加戦闘回数30数回を数え、時には
中隊長代理として部下を率い、その統率力と豪胆さ、戦車運用の才能は高く評価されていた。戦死後、大尉に進級し菊池寛著
の「西住戦車長伝」等によって、軍神として広く知られることになる。
大陸での戦闘はこの後、39年からの南昌作戦以降の戦いで漢口を落とすが、中国奥地に居を構えた中国軍と対峙し戦線は
膠着状態になる。

さて、ここで、一つ言いたいのは、先に書いたが日本戦車の装甲の薄さによる損害である。対戦車砲をろくに持たない中 国軍相手
に、相当な戦車が討ち取られている。戦訓をしっかりと取り入れて装備に生かすことをしていれば、この後戦う
であろう仮想敵国のソ連軍や英米軍との戦闘に対し、どれほどの戦闘被害が発生するかの試算も出来たであろうが、大陸での
連戦連勝に、そのような気持はついぞ表れなかった。それが、本格的近代軍との戦闘にいかに通用しないものかはノモンハンで
手痛いほどに実証されてしまうのである。後悔先に立たずとはよくいったものである。

7)ノモンハンの安岡支隊

日本陸軍はその主敵として北方のソ連を第一ととらえていた。事実、日露戦争では帝政ロシアの南下政策の直接脅威にさらされ、
ソ連成立後もその動静に気を配っていた。この脅威に直接対抗する勢力として半島には朝鮮軍を、奉天近郊には関東軍を
編成配置していた。満州事変が関東軍の手によって演出され満州国の成立となったが、この、満州国を成立させる動機と
なっているのは、度重なる大陸での日本の持つ権益侵害に対する権益保護と、ソ連との間に緩衝国家を作るということ、
また、満州開拓によって土地資源を確保するという事であった。建国後は、その軍事的なプロセスを関東軍幹部達が握り、
具体的に直接国境を接する国としてソ連に対していく事になった。
最初の国境紛争は37年、黒龍江の中州をめぐってカンチャーズ事件がおき、翌38年7月、張鼓峰でソ連軍と19師団が衝突する
事件が起こる。この事件で日本軍は初の近代軍との戦闘でのその投入される火力と物量のすごさを体験するのだが、
戦闘の反省もできないまま39年5月11日からの4ヶ月に渡るノモンハン事件が発生しソ連軍との本格的戦闘に突入してしまうこ
ととなる。

  1)戦闘初期
モンゴル軍が越境との報を受けこの付近の警備を担当していたハイラル駐屯の23師団は東八百蔵中佐を指揮官とする
師団捜索隊と山縣武光大佐指揮の歩兵第64連隊あわせて2千名からなる山縣支隊を編成28日に出撃させる。東捜索隊が
先行突進したが、後続の山縣支隊主力と分断され東中佐戦死、捜索隊220名中139名死傷という事態に陥り、31日
師団長小松原中将は後退を命じた。この事態に関東軍は驚愕しさらなる兵力投入を決め、23師団指揮下に7師団の
歩兵26連隊をくわえ、なおかつ、第一戦車団の戦車第三、第四連隊に歩兵第28連隊第二大隊、独立野砲兵第一大隊、
工兵第24連隊からなる臨時の機械化部隊「安岡支隊」を編成し、前線に投入する。この支隊、なんのことはない1年前まで
独混第一旅団として編成されていた部隊である。
また、当時の戦車第四連隊隊長玉田美郎大佐の手記には、関東軍の参謀は「今度の出動は大規模だから、敵は闘わずして
逃げるかも知れない。」と楽観視していた。なんと、関東軍幹部はソ連兵は弱兵であると見下していたのである。

  2)戦闘中期
6月21日に安岡支隊は鉄道にてノモンハンに近い鉄道終点ハロルアルシャンに到着。そのまま60q北西にあるハンダガイ
へ集結せよとの命令をうけた。しかし、現地は戦車機動に不向きな道路不整備地であり、泥濘・湿地地帯であった。
故障車続出のなか、それでも25日には全車集結を終えた。当初、関東軍参謀達は(かの辻政信少佐もスタッフの一人)
23師団と安岡支隊でソ連軍を挟み撃ちにする目論見であったが、これは現地の状況を無視した『机上の空論』であった。
(地図の上だけで戦争指導をする参謀たちの悪弊はすでにこの時から表れている。戦闘には、現地調査、偵察等情報が
不可欠であるにもかかわらず、それを怠る結果がどの様になるかはガダルカナル戦前後から如実に表れ、特に
島嶼戦やインパール戦では無謀なる白兵攻撃、補給の不足、転進につぐ転進を強要することによっていたずらに兵を損耗させ、
結果、敗戦を迎えることになるのは存知の通りである。)安岡支隊の西進をあきらめた関東軍は23師団と合流させ、
ハルハ河右岸を安岡支隊に攻撃させ、その間に23師団に左岸を攻撃させる作戦へと変更する。

7月2日夕方、安岡支隊はソ連軍への攻撃を開始する。支隊の装備する戦車は89式34輌、95式軽35輌、97式が4輌の
計73輌であった。この攻撃に先立つ偵察機からの報告によりソ連軍は退却中と判断。師団司令部は歩兵との共同機動を
無視し戦車隊単独での追撃戦を下令する。ところが、ソ連軍は防御陣地を築いて待ちかまえており、その中へ戦車第三連隊は
飛び込むことになってしまい多大な損害を出してしまう。一方、戦車第四連隊は別に川又方面へと進出し、折からの雷雨に
助けられてソ連軍陣地を奇襲することに成功する。火砲12門、戦車装甲車約10輌、トラック約10輌を破壊、損害は負傷者10名と
戦車1輌が破壊される一方的な戦果を上げるが、歩兵がいないため陣地を占領できず後退してしまうのだが、23師団主力は
3日朝までにハルハ河を渡ってしまっているので、安岡支隊は損害を出したとしても23師団を援護しなければならないという状況に
たってしまった。
「敵は退却中」という誤報のため、随伴歩兵をもたないで追撃戦を闘うことになってしまった安岡支隊はこの2〜3日の戦闘で
第三連隊の吉丸大佐戦死他、多数の死傷者を出した上に、戦車13輌、軽装甲車5輌を失ってしまう。この戦闘のエピソードを
玉田大佐の手記からみてみよう。「95式軽戦車の砲手がこう報告する。『部隊長殿、私の射つ弾丸は確かに命中するのですが、
敵戦車は跳ね返します』これは必勝の信念にも影響する重大事だ、と心中密かに心配した」
ノモンハン戦に投入されたソ連製戦車はT−26軽戦車やBT−5快速戦車であったが最大装甲厚は、たった15mm程度である。
しかし日本戦車の戦車砲ではこの装甲を打ち抜くことはかなわなかった。口径も短く、初速も低い37mmや57mm砲ではソ連戦車の
傾斜装甲には、たとえ15mm厚でも打ち抜くことは出来なかったのであり、反対にソ連戦車の46口径45mm砲は初速も速く、
日本戦車の装甲を簡単に打ち抜く事が出来たのである。

一方、23師団は、3日早朝より戦車と歩兵を共同させたソ連軍の強力な反撃を受けたが、この時点で参加していたソ連製車輌は
ガソリンエンジンであったために、日本兵が投げつける火炎瓶で簡単に炎上し、ソ連軍の戦車、装甲車あわせて150輌の損害を
与える事に成功した。しかし、有効な対戦車砲を持たない日本軍は、最前線兵士の肉弾戦で辛うじて戦線を支えているのであり、
攻撃はいきずまってしまった。この状況に関東軍参謀部は、予想を超えた敵機甲部隊の反撃に対し作戦の前途に希望を失い、
23師団を撤退させる事に決するのである。そして、攻撃主眼を戦車隊が攻撃しているハルハ河右岸に移すことにする。
6日、ソ連軍は、日本軍が新たな攻撃準備を整えている時に反攻に出る。最も強い攻勢にさらされたのが戦車第4連隊で、
この日の戦闘で42名の戦死者と89式中戦車6輌、95式軽戦車5輌を失った。これで、2〜7日の戦闘中の損失は戦車29輌、
軽装甲車7輌が失われ、損耗率40%に達してしまう。こんなに損耗してしまっては「今後の軍備充実計画に支障をきたす」
との理由で、安岡支隊は7月10日編成を解かれ公主嶺への帰還命令がでる。しかし、敵前解任に等しい命令に安岡中将は怒り、
関東軍司令官植田大将に「遺憾に耐えず」との電報を発した。そのため、帰還がのばされたが結局、7月26日には
予断が許されない戦場を後にすることとなる。

  3)戦闘後期
空の戦いでは、日本軍の97戦がその格闘性能を生かしソ連軍のイ−15、イ−16相手にワンサイドゲームを演じていたが、
低翼単葉のイ−16が急降下速度で日本軍に勝るという特性を生かした一撃離脱戦法(ロッテ戦)を取り入れてからは苦戦を
強いられていた。戦車隊が去った地上戦では、歩兵の夜襲を主体とするものとなり戦線は膠着状態となってしまった。
戦線からの撤退を主張する意見もでたのだが、関東軍は面子にこだわり陣地の強化と越冬準備を現地軍に命じ、新たに第六軍
(司令官 荻洲立兵中将)を新設する。しかして、8月20日。ソ連軍は今までの3倍の兵力を投入し、全線に渡り進撃を開始し、
自国が主張する国境線まで進出すると進撃を止め防衛体制を整えた。この大攻勢の指揮をとったのが後の独ソ戦で名をはせる
ゲオルギー・ジューコフ将軍であった。9月15日、モスクワで停戦協定が成立し、事件は集結した。
ノモンハンのなにもないただの草原をめぐっての4ヶ月の戦いで日本軍は5万8952名の兵力を投入し、1万9786名が死傷する
という損害を被った。主に前面で戦った23師団は損耗率79%(これは全滅の損害である)という損害を出した。
戦闘前期中期は互角の戦いに持ち込んでいた日本軍であったが、この20日の大攻勢では歯がたたず全滅する部隊もあった。

これは戦後何度も言われていることだが、この事件で日本軍は戦訓としてなにも学ぼうとしなかった。関東軍で指揮をとった
司令官や参謀が更迭され(辻参謀はこの後いったん閑職につくが、のち返り咲き、マレーの山下中将の元で参謀を務め、
ガダルカナルでも指揮をとる)部隊長は敗戦責任をとって自決する者もいた。また、自決を強要された者もあったという。
敗因の検討もまがりなりにもしたのだが、これは例外的戦闘である、とまともな敗戦検討はされないままであった。
これを知ることが出来る戦車学校から北支那方面軍に転出した加登川幸太郎大尉の回想録があるので引用する。

「関東軍の新任作戦参謀で参謀本部から来た島村矩康少佐が傲然と我々に『この事件は日本軍にとって例外的の戦闘で、
我々の主戦場は、こんなソ連軍が航空や、戦車砲兵の威力の発揮しやすい広漠たる草原ではないのだ』とぶちあげた。
そして、戦車や砲兵の増強の事を述べると思いきや『今後は歩兵の機関銃を増強するのだ』と言い放って、私を唖然とさせたも
のだった」

作戦や軍の編成を立案する参謀の一人がこんな程度の認識であったというのは、もう喜劇としか言いようがない。こんな指導部
の元で命を懸けて戦わねばならなかった兵達の苦悶を思うと、怒りがこみ上げて仕方がない。前線部隊と統帥部の温度差が、
結局は一国の未曾有の敗戦につながるなどと、この時、何人の責任者が考えたであろうか。これは、現在を生きる我々が、
肝に銘じて置かなければならない人生の教訓でもあると、私は思うのだ。


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